東京地方裁判所 昭和47年(ワ)7198号 判決 1975年9月29日
原告 河野義
右訴訟代理人弁護士 古閑陽太郎
右同 高橋郁雄
被告 国
右代表者法務大臣 稲葉修
右指定代理人検事 伴義聖
<ほか二名>
主文
被告は、原告に対し、金七〇万一四〇〇円及びこれに対する昭和四七年九月一九日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その一を被告の負担とする。
この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
被告において金七〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金一五〇万一四〇〇円及びこれに対する昭和四七年九月一九日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 原告の請求が認容され、仮執行の宣言が付される場合には担保を条件とする仮執行免脱の宣言。
第二当事者の主張
一 請求原因
1(偽造文書による登記申請の受理)
(一) 原告は、昭和三七年六月一六日、別紙物件目録記載の各土地(以下本件各土地という。)を訴外有限会社春木商事(以下春木商事という。)から買い受け、同日、所有権移転登記を経由した。
(二) 分離前相被告奥平原理(以下、単に奥平原理という。)は、昭和四六年六月二日、原告の意思に基づかずして、いずれも偽造にかかる、前記春木商事から原告へ本件各土地を売渡した旨の登記済証、原告の印鑑証明書、原告名義の委任状を添付した登記申請書により本件各土地につき、東京法務局渋谷出張所に対し、自己を名義人とする抵当権設定仮登記及び条件付賃借権設定仮登記、買戻特約付所有権移転登記の各登記を一括して申請し、右申請が受理された結果、本件各土地につき、東京法務局渋谷出張所昭和四六年六月二日受付第二一六六五号抵当権設定仮登記、第二一六六六号条件付賃借権設定仮登記、第二一六六七号買戻特約付所有権移転登記の各登記(以下本件各登記という。)がなされた。
2(責任原因――登記官の過失)
本件所有権移転登記申請書に添付されていた登記済権利証二通(以下、本件登記済証という。)に押捺されていた登記済印(以下本件登記済印という。)及び庁印(以下本件庁印という。)はいずれも偽造にかかるものであり、本件各登記申請は却下すべきものであるにもかかわらず、東京法務局渋谷出張所登記官は、本件登記済印及び庁印がいずれも偽造にかかるものであることを過失によって看過し、本件各登記申請を受理したものである。右過失の点を細説すれば次のとおりである。
(1)(登記官の注意義務)
一般に、登記官は、登記申請書のほか登記済証等の添付書類の形式的真否を調査し、不真正な書類に基づく登記申請を却下すべき注意義務があるが、登記済証に押印されている庁印及び登記済印は、登記済証が適正な手続によって作成されたものであることを証明するために、法務局が押印するものであり、一般国民は右押印された庁印及び登記済印の各印影を信頼して不動産取引をなすものであり、庁印及び登記済印の存在は登記済証において最も重要なものであるから登記官は庁印及び登記済印の真偽を調査すべき注意義務がある。そして、右注意義務を果すためには、登記官は、当該出張所における過去、現在の使用庁印及び登記済印の形状、寸法等を熟知していなければならず、また、適宜登記済証に押印されている庁印及び登記済印の印影を真正の印影と照合し、その真偽を調査する注意義務がある。
(2)(偽造の印影は真実の印影と相違し、肉眼で右相違を発見し得た事実)
偽造にかかる本件登記済印と、本件登記済証に作成日付として記載されている昭和三七年六月一六日当時の東京法務局渋谷出張所において使用されていた真正の登記済印との各印影を比較すると、形状、大きさにおいて一見して明らかに異なっているほか、偽造の印影には、「附」、「號」「濟」と旧字体が使用されているのに対し、真正の印影にはそれぞれ「付」「号」「済」と新字体が使用されており、また偽造の印影には「渋谷出張所」の「渋」については新字体が使用されているのに対し、真正の印影には「澁」と旧字体が使用されている。
次に偽造にかかる本件庁印と本件登記済証に作成日付として記載されている昭和三七年六月一六日当時における前記出張所の真正の庁印との印影を比較すると、偽造の庁印では枠と文字の線の太さが同じであるが、真正の庁印では枠の線が文字にくらべて数倍太くなっており、さらに、東京法務局の「務」の文字に多少の相違がある。
右のとおり、本件登記済印及び庁印と真正の印影とは一見して明らかに異なっているのであるから、登記官において真正の印影の認識を有しているかぎり、本件登記済印及び庁印を肉眼で見ただけでこれが偽造のものであることを容易に発見しえた。
(3)(本件登記済印及び庁印が不鮮明であった場合の登記官の注意義務)
仮に、本件登記済印及び庁印が不鮮明であって、真正の印影との相違が一見して明らかでなかったとしても、登記官は、本件登記済印及び庁印が不鮮明であること自体に疑問をいだき、真正の印影とよく照合してみるべきであって、右照合によって本件登記済印及び庁印が偽造のものであることを容易に発見しえた。
(4)(登記官が右相違を看過した事実)
しかるに、本件各登記申請を受付けた東京法務局渋谷出張所登記官は、本件登記済印及び庁印の確認照合を怠り、本件登記済印及び庁印の印影が前記のとおり真正の印影と相違することを看過し、本件登記済印及び庁印が偽造にかかるものであることを発見しえなかった。
3(損害)
原告は、東京法務局渋谷出張所登記官が前記過失によって本件各登記を完了したことにより、次の損害を被った。
(一) 弁護士費用 合計一三〇万円
原告は、本件各登記の抹消登記手続をするために、登記名義人奥平原理に対し、本件各土地の処分禁止の仮処分申請(東京地方裁判所昭和四七年(ヨ)第四七七二号事件)をなして、右仮処分決定を得たうえ、本件各登記の抹消登記手続を求める土地所有権移転登記抹消等請求訴訟(同裁判所同年(ワ)第七一九八号事件)を提起したが、右仮処分申請及び訴訟の提起、追行を原告訴訟代理人たる弁護士古閑陽太郎、同高橋郁雄に依頼し、着手金として金三〇万円を支払い、報酬として金一〇〇万円を支払うことを約している。
なお、右訴訟事件は、第一〇回口頭弁論期日において奥平が請求を認諾したことによって終了したが、原告訴訟代理人らは、右訴訟提起前に証拠収集活動を行ない、しかるべき証拠、特に渋谷出張所登記官玉川二三男作成にかかる「本件登記は偽造の疑いのある登記済証を添付した申請によりなされたものである」との書面を取得していたため、右奥平をして請求認諾をなさしめることができたのであり、しかも、右訴訟提起から請求認諾による訴訟終了まで約一年の年月を要し、その間一〇回の口頭弁論期日を経ているのである。従って、原告訴訟代理人の右訴訟前の活動をも考慮すれば、東京弁護士会、第一弁護士会、第二弁護士会作成の弁護士報酬規定が定める最低額の約二分の一にしかすぎない前記弁護士費用一三〇万円は相当である。
(二) 前記仮処分決定に基づく登録免許税 合計二〇万一四〇〇円
原告は、前記仮処分決定に基づき、(1)本件土地の処分禁止の仮処分の登録免許税として五万四三〇〇円、(2)本件抵当権設定登記上の権利についての処分禁止の仮処分の登録免許税として一二万円、(3)本件停止条件付賃借権設定仮登記上の権利についての処分禁止の仮処分の登録免許税として二万七一〇〇円をそれぞれ支払った。
4(結論)
よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条に基づき、損害賠償として金一五〇万一四〇〇円及びこれに対する訴状送達日の翌日である昭和四七年九月一九日以降完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1(一)の事実は不知。請求原因1(二)の事実は認める。
2 請求原因2冒頭事実のうち、本件登記済印及び庁印がいずれも偽造にかかるものであること、及び東京法務局渋谷出張所登記官が右登記済印及び庁印が偽造にかかるものであることを発見せず、本件登記済証を真正に成立した登記済証として本件各登記申請を受理した事実は認めるが、本件登記済印及び庁印がいずれも偽造にかかるものであることを容易に発見しえたとの事実は否認し、右登記官に過失があったとの点は争う。
請求原因2(1)の事実中、一般に登記官が登記申請書のほか登記済証等の添付書類の形式的真否を調査し、不真正な書類に基づく登記申請を却下すべき注意義務があることは認めるが、その余は否認する。
請求原因2(2)の事実は否認する。
請求原因2(3)の事実は否認する。本件登記済証である甲第四号証の一及び二の各登記済印及び庁印の印影はきわめて不鮮明であるが、これは右書証の原本が警察における捜査及び鑑定に使用されたため当初は鮮明であった印影が、不鮮明になったものである。
請求原因2(4)の事実中、東京法務局渋谷出張所登記官が本件登記済印及び庁印が偽造にかかるものであることを発見しなかったことは認めるが、その余は否認する。
3 請求原因3の事実中、冒頭の主張は争い、同(一)のうち、原告主張のとおり、奥平原理に対し仮処分申請をなして仮処分決定を得たうえ本件各登記の抹消請求訴訟を提起し、右事件が第一〇回口頭弁論期日において同人の請求認諾によって終了した事実は認め、その余は否認し、同(二)は認める。
4 被告の主張
(一)(登記官に過失のないこと)
(1) 登記済印による印影は、不動産登記法六〇条一項の規定に基づく記載を便宜上ゴム印等により表示しているのにすぎず、記載内容が重要であって、印形自体には特段の意味がなく、その寸法、形状等については別段の定めはなく適宜のもので足る。従って、登記官は当該出張所毎に過去数一〇年間に使用された寸法、形状等の異る少なくとも数個の登記済印を熟知しているものではなく、又、熟知しておくべき注意義務もない。さらに、登記官は、個々の登記事務に際し、登記済証の登記済印影を当該年次の使用登記済印と照合し、比較検討すべき注意義務もない。
(2) 本件登記申請は、原告ほか数名の印鑑から、印鑑登録証明、登記済証等に至るまで全て偽造してなされ、これらの偽造はきわめて大がかりな計画的グループにより精緻巧妙に高度の複製技術を駆使してなされている。
そして、本件登記済印及び庁印は、その大きさ、形状、字体において真正のものと極めて類似しており、精密な検査を行なわない限り登記官に通常要求される注意をもってしては到底偽造であることを看取しうるものではない。
(3) しかも、本件各登記申請は、法務局に提出する書類の代行作成を業務とする司法書士が代理してなしたもので、同書士においてすら本件登記済証が偽造であることを発見し得なかったのであり、登記官において、司法書士による申請はそれが真正なものと考えるのが一般であるから、登記官に本件登記済証の偽造の発見を期待することは酷である。
(4) そして、本件各登記申請は、巧妙に登記官の注意をそらす意図でなされている。すなわち、本件登記申請の順位は、抵当権設定仮登記、停止条件付賃借権設定仮登記、買戻特約付所有権移転登記の順位で一括してなされており、本件偽造の登記済証は最後の買戻特約付所有権移転登記申請書に添付されていたものであって、登記済証の添付を要する右第三の登記申請を最後にまわすことによって、登記官の注意力をそらすように仕くまれている。
(5) しかるに、近時登記事件は激増し、登記官は慢性的繁忙状況におかれており、しかも、登記事件はきわめて速やかに処理することが要請されている。加えて、渋谷出張所登記官は本件のような公印の偽造を従来経験することがなかった。以上よりすれば、登記官に酷な注意義務を課することは法の趣旨ではない。
(6) 以上の諸事情に徴すれば、渋谷出張所登記官が本件登記申請を審査するにあたり、本件登記済証が偽造のものであることを発見できなかったことをもって過失であるということはできない。
(二)(因果関係がないこと)
(1) 不法行為の被害者が損害賠償義務者たる相手方から容易にその履行を受け得ないため、自己の権利擁護上訴を提起することを余儀なくされた場合においては、当該訴訟において支出した弁護士費用中、事案の難易、請求額、認容された額、その他諸般の事情を斟酌して相当と認められる額の範囲内のものに限り、敗訴当事者に対し、右不法行為と相当因果関係に立つ損害としてその賠償を請求しうるが、右弁護士費用は、敗訴当事者の不法行為に対して自己の権利擁護上、訴を提起することを余儀なくされた場合における支出であるから、その賠償義務を負担するのは、敗訴当事者又は敗訴当事者と共同して右不法行為をなした者(又は敗訴当事者とともに右弁護士費用につき不真正連帯債務を負担する者)に限定されるべきである。
(2) 不動産登記法四九条八号に違反して本件各登記申請を受理した登記官は、違法なその登記を職権抹消する手段を封じられ(同法一四九条一五一条)、奥平原理の承諾による抹消を待つほかはない。ところで、奥平原理は、右承諾をなすべき義務があり、本件各登記が偽造の書類によるものであり、無効であることは十分承知していたにもかかわらず、住居をくらまし、一週間以内に買戻さなければ本件各土地を処分する旨原告に予告するなどしたため、原告は本件各土地につき処分禁止の仮処分申請を余儀なくされたのである。従って原告の右仮処分申請は、奥平の右処分予告という不法行為に対して自己の権利擁護上申請を余儀なくされたものであって、渋谷出張所登記官は右不法行為につき共同不法行為、教唆もしくは幇助の責任を負うものではないから、右仮処分申請に要した登録免許税及び弁護士費用は、いずれも、本件登記官の過失と相当因果関係に立つ損害ではない。
(3) また、原告が奥平原理に対し所有権移転登記抹消登記手続請求訴訟を提起するに至ったのは、同人が本件各登記の無効であることを承知していたにもかかわらず住居をくらます等してその抹消に容易に協力しなかったゝめである。また同人は、右訴訟において勝訴の見込みが皆無であることを承知の上、表見代理の主張をするかの態度を示し、不当に抗争した。従って、原告は右訴訟事件に要した弁護士費用を同人の不当抗争に基づく損害として同人に請求するのであればともかく、同人の不当抗争につき何ら共同関係にない被告に対しその賠償を請求することは失当である。
(三)(損害額が減額されるべきであること)
(1) 仮に、登記官の過失と原告の損害との間に因果関係があり、被告がその賠償義務を負うべきものとしても、その範囲は、登記官の過失が原告の損害発生に寄与した度合に応じて限定されるべきであるところ、登記官の過失の右寄与率は、登記必要書類を偽造し本件各登記を申請した者の貢献度に比すれば、量、質共に極めて低率であることは疑いないので、原告の損害につき被告が賠償すべき範囲はせいぜい全損害額の一割に足りない程度と考えるのが合理的である。
(2) 仮に、右主張が認められないとしても、原告の奥平原理に対する本件各登記抹消登記手続請求訴訟は、当初同人において原告の請求を争い、表見代理の主張をするかの如き態度を示したものの、遂に積極的に争わないまま、被告が昭和四八年七月一二日の口頭弁論期日に同日付準備書面を陳述して本件登記済証の各印影が偽造でありかつ登記官がこれを看過した事実を自白するや、その次回期日である同年九月一一日に原告の請求を認諾することによって、終了した。してみると、相当程度の紛争継続を予定して定められたはずの原告主張の弁護士費用をそのまま登記官の過失による損害として被告が賠償すべきいわれはない。
三 被告の主張に対する原告の認否
前記二4の被告の主張は争う。
第三証拠≪省略≫
理由
一 ≪証拠省略≫によれば、原告が昭和三七年六月一六日、本件各土地を訴外有限会社春木商事から買い受けてその所有権を取得し、同日、所有権移転登記を経由した事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
請求原因1(二)の事実は当事者間で争いがなく、≪証拠省略≫によれば、本件各登記は、実体上の権利関係を伴わない無効の登記であることが認められる。
二(公務員の過失)
1 公権力の行使に当る公務員
登記事務は、国家が私権のためにする公証行為に関する事務であって、これを担当する登記官が国の公権力の行使に当る公務員であることはいうまでもない。
2 登記官の審査権、注意義務
不動産登記法施行細則四七条は「登記官が申請書を受取りたるときは遅滞なく申請に関する総ての事項を調査すべし」と規定し、不動産登記法四九条は一号ないし一一号の事由につき、申請を却下すべきことを定めているが、いかなる範囲で、登記申請につき調査すべきかについて明定していないが、登記官は少なくとも、登記申請の形式的適法性を調査する職務権限があることは明らかであり、申請者が適法な登記申請の権利、義務者又はその代理人であるか否か、登記申請書及び添付書類が法定の形式を具備しているか否か等を審査しなければならないが、その審査に当っては、添付された書面の形式的真否を、添付書類、登記簿、印影の相互対照などによって判定し、これによって判定しうる不真正な書類にもとづく登記申請を却下すべき注意義務が要求されるものといわなければならない。そして、登記申請書類中には登記済証が含まれる(不動産登記法三五条一項三号)から、その審査についても右と同様の注意義務が要求されることはいうまでもない。
3 審査義務違反
(一) 本件所有権移転登記申請書に添付されその余の本件登記申請書等と共に一括して提出された本件登記済証に押捺された本件登記済印及び本件庁印の各印影が偽造された印章によって顕出されたものであること、東京法務局渋谷出張所登記官(以下単に登記官という)が本件各登記申請の審査にあたり、右印章の偽造を発見しないまま本件各登記申請を受理したことは当事者間に争いがない。原本の存在につき争いがなく、甲第四号証の一の末尾中段及び同号証の二の末尾下段の各「売買に因る所有権移転」のゴム印及びその左側の東京法務局渋谷出張所の各登記済角印(横長矩形のもの)の部分が真正に作成されたものであり、同号証の一、二の末尾上段の各登記済印(縦長矩形のもの)及び同号証の一の下段及び同号証の二の中段の各庁印が偽造された印章によるものであることにつき争いがなく、弁論の全趣旨によりその余の部分も偽造にかゝるものであると認められる甲第四号証の一、二、≪証拠省略≫によれば右偽造にかかる本件登記済印は、縦約六センチメートル、横約三・七センチメートルの長方形で、「東京法務局渋谷出張所」、「受附」、「昭和 年 月 日」、「第 號」、「登記濟」と記載されている事実が認められ、≪証拠省略≫によれば、本件登記済印中に受付日付として記載されている昭和三七年六月一六日当時の東京法務局渋谷出張所の真正の登記済印(乙第三号証左側の登記済印)は、縦約七センチメートル、横約四・一センチメートルの長方形で、「東京法務局澁谷出張所」、「受付」、「昭和 年 月 日」、「第 号」、「登記済」と記載されている事実が認められる。右事実によれば、偽造された本件登記済印と真正な登記済印とは、大きさ、形が異なり、かつ偽造印影は「渋」の字については新字体を、「附」「號」「濟」の字については旧字体を各使用しているのに対し、真正の印影は「澁」の字については旧字体を、「付」「号」「済」の字については新字体を各使用している事実が認められる。右事実によれば、登記官は、本件各登記申請を審査するにあたり、本件登記済証に押捺された登記済印の印影自体から、又は当時の真正な印影と対照することにより、容易に本件登記済印が不真正なものであることを看取できたはずであって、これを看過し、本件登記済証を真正なものとして、本件各登記申請を受理したことは、審査において当然尽すべき注意義務を怠ったものといわなければならない。
(なお、前記甲第四号証の一、二によれば、本件登記済証に押捺されている本件登記済印の印影はかなり不鮮明なものであるから、登記官が本件各登記申請を受理した当時においても本件登記済印の印影はかなり不鮮明であり、右印影を一見したゞけでは前記認定のような字体の相違を発見しにくい状況にあったのではあるまいかと窺われなくもないが、しかし、かゝる場合においては、かえって、登記官は右印影が不鮮明であることに疑をもち、その判読識別に気を配り、これを詳細に確認、照合すべき注意義務があるというべきであり、右義務を尽すことにより前記認定説示の字体の相違を発見しえたものと認められる。)右認定、判断を左右するに足りる証拠はない。
被告は、登記官の前記過失を否定する事由として、(一)本件各登記申請が、抵当権設定仮登記、停止条件付賃借権設定仮登記、買戻特約付所有権移転登記の順位で一括してなされたが、本件登記済証が最後の所有権移転登記申請書に添付されていたこと、(二)本件各登記申請が司法書士によって代行され、右司法書士においても本件登記済印、庁印の偽造を発見できなかったこと、(三)登記官が本件のような公印の偽造を従来経験することがなかったこと、(四)登記官が慢性的繁忙状態にありながら定型的、迅速な事務処理を要求されていること等を縷々主張するが、右主張の各事由は、いずれも登記官に登記済証の不真正なことを看過した過失がある旨の前記認定を覆すに充分なものとは認めがたく、(右主張の各事由を考慮しても、叙上説示、認定の事実関係にもとづき登記官に過失ありと判断することが、登記官に難きを強いることになるとは、到底解しえない。)この点に関する被告の主張は、採用することができない。
以上の事実によれば、登記官の過失ある違法行為により原告所有の本件各土地につき実体上の権利を伴わない無効の本件各登記が生じたものというべきであるから、原告の右登記を抹消するために必要とした費用(損害)は、国家賠償法一条により、右登記官の違法行為と相当因果関係のある範囲につき、被告においてこれを賠償すべき義務がある。
三(損害)
原告が、奥平原理に対し本件各登記の抹消登記手続を求めるために、まず同人を相手どって本件各土地の処分禁止の仮処分申請をなして右仮処分命令を得たうえ、本件各登記の抹消登記手続を求める訴訟を提起し、右訴訟が第一〇回口頭弁論期日において奥平の請求認諾により終了したこと、原告が右仮処分の登記のため登録免許税金二〇万一四〇〇円を支出したことは当事者間に争いがない。そして≪証拠省略≫によれば、原告は、前記仮処分申請及び訴訟の提起、追行を弁護士古閑陽太郎及び高橋郁雄に委任し、すでに着手金として金三〇万円を支払い、更に報酬として金一〇〇万円の範囲内で本訴において裁判所が適正な弁護士報酬として認容する金額を支払う旨を約していることが認められる。
そして、≪証拠省略≫によれば、奥平原理は、前記仮処分申請の以前から前記請求の認諾に至るまでの間において、本件各登記を任意に抹消する態度に出ず、原告に対し本件各土地の買戻しを求め、右要求に応じないときは、これを他に転売する旨を予告し、また前記訴訟においても当初は請求棄却を求めて原告の請求を抗争する態度に出ていたことが認められるので、原告が前記仮処分申請及び訴訟の提起、追行をなしたことは、本件各登記を抹消し、本件各土地についての権利を擁護する上で必要不可欠の措置であったものというべく、したがって、右のために要した前記登録免許税及び後記認定範囲に属する額の弁護士費用は、前記登記官の違法行為と相当因果関係にある損害であるというべきである。被告は、前記仮処分申請は、本件各登記の抹消登記義務を有する奥平が本件各土地を他に処分するような態度に出たため、また前記訴訟の提起、追行は、同人が原告の請求を不当に抗争する態度に出たゝめに、それぞれ必要となったものであって、被告において右のような奥平の態度につき共同不法行為責任がない以上、前記原告に生じた損害は、本件登記官の違法行為と相当因果関係がない旨を主張するが、登記官の違法行為によって本件各登記のような実体上の権利を伴わない登記が現出したときは、その名義人において任意に右登記の抹消に応じないため、実体上の権利者が登記簿上の名義を回復するために名義人に対する処分禁止の仮処分の申請、登記抹消請求訴訟の提起を余儀なくされる事態が生ずることは、予見することが可能な通常生ずべき事態であると解されるし、叙上認定説示の事実関係に照らし前記被告の主張は採用することができない。他に叙上認定を覆すに足りる証拠はない。
そこで、前記仮処分申請及び訴訟の提起、追行についての弁護士費用額について判断するに、≪証拠省略≫によれば、同人は、原告から本件各登記の抹消登記手続につき相談を受けるや、東京法務局渋谷出張所所長と面接交渉し、登記簿謄本の末尾に本件各登記事項が偽造の疑のある登記済証を添付した申請書によりなされたものである旨の同出張所長作成名義の奥書の添付を受け、さらに、当時本件登記済証等偽造事件の捜査にあたっていた愛宕警察署担当係官と交渉し、本件登記済証等偽造文書の写を証拠として取得する等、訴訟準備活動をした上で、前記処分禁止の仮処分申請をなして、右仮処分決定を得、続いて本件各登記抹消登記手続請求訴訟を提起し、右訴訟係属中、訴訟の内外において前記収集証拠を示すなどして奥平原理訴訟代理人中野公夫と一〇回以上交渉するに至ったこと、そして、右訴訟は、右請求認諾に至るまで一〇回の口頭弁論期日を重ねたが、奥平において証拠を提出する等の積極的立証活動をするに至らず、結局人証の取調べを行なわないまゝ奥平原理が請求を認諾したことが認められる。右認定事実に、訴訟物の価格、≪証拠省略≫によって認められる東京弁護士会等の弁護士報酬基準等の諸事情、その他叙上認定説示の全事実関係を総合して考量すれば、前記仮処分申請及び訴訟における原告の弁護士費用は金五〇万円が相当と認められる。従って、前記登記官の違法行為と相当因果関係に立つ損害は右弁護士費用金五〇万円及び前記登録免許税二〇万一四〇〇円の合計七〇万一四〇〇円であると認められる。
なお、被告は、原告に生じた本件損害のうち被告が賠償すべき額は、登記官の違法行為が原告の損害発生に寄与した度合に応じて減額されるべきであると主張するので判断するに、原告に生じた本件損害は、本件登記必要書類を偽造し、不実の本件各登記の現出を企図した者の違法行為と、本件各登記申請を受理して本件各登記をなした登記官の違法行為とが競合して発生したことが明らかで、右両者の行為は共同して違法に原告に損害を与えたというべきであり、かゝる場合は、国家賠償法一条、四条、民法七一九条に照し、被告は、叙上登記官の違法な加害行為と相当因果関係にある前記本件損害の全部について、その賠償の責に任ずべきものといわなければならない。したがって、前記被告の主張は採用することができない。
以上の次第で、原告の本訴請求は、損害金金七〇万一四〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和四七年九月一九日以降完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、仮執行免脱の宣言につき同条二項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 後藤静思 裁判官 黒田直行 裁判官梶陽子は職務代行を解かれたゝめ署名押印することができない。裁判長裁判官 後藤静思)
<以下省略>